
── 黒峰達哉の狼狽
◆ Scene3:幼馴染 ──
──見た夢は、昔の夢。
彼と初めて出会ったのはいつだったろう。
物心ついた頃にはもう隣に彼がいて、いつも楽しそうにみんなの手を引き遊んでいた。
そこに同じように手を引かれている自分も、その手を取って一緒に駆け出すほど、楽しかった。
公園で彼らと遊ぶ時間は、何より伸び伸びとした自由の……まさしく自由の時間だった。
厳しい母親も、彼と遊ぶことは喜んで許可した。
彼が、名のある政治家の息子だったから。
でも、子供にはそんなものさっぱり関係なかった。
彼は自らの家庭の権威を振りかざしたりしなかったし、息をするように自然とみんなに気を配っていつも輪の中心にいて、明るかった。
何より、正義感があって、誰よりもいじめを嫌っている。それでいながら、対立を避けるバランス感覚が上手くて、気に入らない子供を嫌う大人への対応も上手かった。
達哉はそんな彼が大好きだった。
何かあれば彼の側に寄っていけば、必ず楽しい話に混ぜてもらえる。そういう確信がいつもあって、実際にそうだった。
彼の家族同伴で映画を観に行き、キャンプに行き、スポーツ大会を観に行き、温泉旅行に行った。
彼や彼の家族と過ごす時間は、達哉にとって幸福で大切な時間の一つだった。
彼とその友達と一緒に無邪気に走り回る時間は、唯一何もかもから解放されている、最高の時間だった。
ある時公園に、友達の一人がエアガンを持ってきた。シックな黒光りする、格好良いやつ。
それ、映画で観たやつだ。と指をさす。エアガンなんていけないんだ、となじりつつも、それどうしたのって聞いたら、その子はこう言った。テストのご褒美に買ってもらったんだ、と。
そうなんだ。相槌を打つみんなの中で、いいなぁ。と呟いた。
帰ったら、ねだってみよう。いつも頑張ってるんだから、これくらい、たまのご褒美に──
『お前にその資格があるのか? 立派な犯罪者予備軍の分際で』
振り返ると、公園の入り口に立っているのは、今の、自分。
彼は険しい顔でこちらに銃口を向けていた。
その瞳の色は赤色で……。
◆
「……ぁ、あ」
目が覚めた。背中にひどい冷や汗を掻いていた。
呼吸が荒く、力なく寝返りを打つ。
悪い予感が止まらない。このままではきっと駄目になると思いはじめる。
さっさとそれを振り切って仕事をしなければ。
もう一人の自分などというあの幻覚は、あの時からずっと自分の手で断ち切ってきたはずなんだ。
何を今更。
……そう思うが、腕に力が入らず、立ち上がれない。
……今日くらい。
(……一度、くらい? そんなもの。無い)
一瞬もたげた考えを、必死に振り払おうと力を入れるが、それでも全身に鉛が入ったように動かない。
ぜー、はー。
何か病気にでもなったんだろうか?
困った。
黒峰達哉は額に手を当て、熱を確認するが、勿論ない。オーヴァードは、風邪など引かない。
溜め息を吐いて、内省を続けるが、幻聴のように響く声に胸が締め付けられる。
(……七瀬、君)
夢の続きを追うように、黒峰達哉は携帯を手に取り、幼馴染である水琴七瀬との画面を開く。
他愛もない雑談のログ。
まるで子供の頃から代わり映えのしない水琴七瀬に、虚ろな瞳でメッセージを打ち始めていた。
──七瀬君
──俺は家に甘えてたのかな
◆
「……はー?」
水琴七瀬は、休日の深夜帯を持て余して携帯で流行りの動画をザッピングしていた。
そんな時に降ってきた通知は、目を疑った。
(ええ……なに。どうしたの? 急じゃん。何事?)
あのいくら突いても滅多に自分の話をしたがらなかった、水琴七瀬の幼馴染、黒峰達哉が、突然、それも何の脈絡もなくこんなメッセージを送って寄越したのである。こんな即座に既読をつけるかつけまいかすら悩ましい。
まぁ、それでもすぐに開くのが水琴七瀬という男なのだが。
──七瀬君
──俺は家に甘えてたのかな
軽く恐怖の感情すら覚えるのは水琴七瀬の問題というわけではないだろう。
確かに、水琴七瀬は黒峰達哉の相談に乗りたいとは、実のところもう何年も前からずっと思っていたことだし、自らの悩みを話す傍らでそれとなく引き出して聞いてきたつもりだ。
それもこうも急だと流石に驚くのが素直な感想だったが、それだけにこれ以上の機はないと踏んだ。
黒峰達哉の環境は、水琴七瀬の目からは控えめに見ても異様だった。
今でも覚えている。小学校のはじめての授業参観で彼の母親がやってきたとき。
親子揃ってその衆目を引く美麗さは、粒揃いの校内でも話題性のある方で、達哉もよく懐いているようだった。
しかし少し全体で離れるタイミング。七瀬は聞いていた。
彼の母親は、後ろから達哉の肩を掴み、耳元で囁くように伝えていた。
『あの子は答えに詰まっていて、学力も劣ってるからもう話しちゃ駄目。あっちの子のお母さん、身なりが悪くてお育ちが悪いからその家の子とも関わっちゃ駄目。分かるわよね、賢い達哉君なら』
耳を疑うような台詞だった。
だって、その子たちはいつも授業の合間に達哉と楽しそうに話をしていたからだ。達哉だって、いつも楽しそうだった。
だから。
『はい。承知しました』
だから、彼がそんな風に承諾するなんて微塵も思わなかった。
信じられないことだった。
だから、彼の顔色を窺ったとき。
その時の、泣き出しそうな薄ら笑いを見たとき。
七瀬は何故だかどこか、ひどくほっとしていた。
──甘えなさすぎたんじゃないかな
そうメッセージを返す。
水琴七瀬は覚えている。そんな風に親に言われて友達を選ぶなら、もう一緒に遊んでやらないと、七瀬が癇癪を起こしたとき。
彼は慌てて七瀬の裾を掴み、『もうそんなことは絶対にしません』と謝ったのだ。
その時の、まるで今にも野山に捨てられる子犬のような彼のその悲痛な表情は、今でもよく覚えている。
……今でも、思い返すたびに腹の底に行き場のない憎悪が湧く。
彼のあの表情は、間違いなく自分の親に毎日のようにさせられているものだと思った。
そうだったんだ。今更こんなメッセージを送ってくるのだから。分かりきったことだった。
──どういうことですか
黒峰達哉からの返信を眺め、水琴七瀬は溜め息を吐く。これは明らかに話が長くなると思ったからだ。彼に何があったか知らないが、絶対に通話の方が早い。
──今話せる?
少し遅れて返信が来る。
──場所がない
そういえば彼は今、UGNの支部住まいだ。結構壁が薄いボロ屋らしく、通話の声は聞こえるのだと前に言っていた。
その前はチルドレンの施設で、さらに前はあの母親のいる家だったわけだ。
達哉君に一人きりで過ごす伸び伸びとした時間というのは人生で一体どれだけあったんだ? と疑問に思う。
仕方がないので諦めるしかない。
──わかった
──達哉君は自分の親と将来の話したことあるの
──あるよ
──会社継げって
──いつも
これはすぐ返ってきた。が、そういうことではない。
──そうじゃなくて
──達哉君がどうしたいって話
水琴七瀬は覚えている。
小学校高学年になって、いつものように公園で友達グループの大勢で遊んでいたとき。
七瀬がジャングルジムの頂上で、登ってこようとする友達をからかっていたとき。
少しだけ離れたところで親に買ってもらったエアガンを見せびらかしている奴と、それを囲んでいる奴らがいた。
飛び降りてその話に混ざっていると、じっと黙って見ていた達哉が『それ、見せてくださいよ』と言った。
そいつは、達哉にその大事なエアガンを手渡した。
他の奴にだったら絶対に貸したりしなかったろう。達哉君だから貸したのだ。誰しもがそう思った。
達哉君は掌の上に乗ったエアガンを触ってじっと眺めて、ひっくり返して、まじまじと見ていた。
へぇー、なんて言って、それから『いいなぁ』と呟いた。
今にして分かる、恍惚って顔だ。素直に嬉しそうだった。達哉君の家は厳しくて、勉強道具以外はほとんど何も買ってもらえていなかった。
ありがとう、って返して、それを受け取ったのがこう言った。
『達哉君もさ、今度のテストで100点取ったら買ってって、親に頼んでみなよ。このぐらいきっと買ってもらえるよ。達哉君なら絶対取れるしさ』
みんなが頷いた。そうだよ、なんて口々に言って背中を叩いた。達哉君は少し顔を赤らめて『うん』と言った。それからみんな、各々の遊びに戻った。
──そんなもの、関係ないからしない
その数週間後に、達哉君の転校が決まった。
親の事情という話だった。
もう転校先の小学校は合格しているらしくて、みんなは急な知らせで驚いた。
お別れ会しようか、なんて言う女子もいたけど、達哉君は繕った笑顔でまた会えるからって断った。
達哉君のお父さん社長だから転勤でもないのに何でだろうね、と噂されながらも、誰も理由は思い至らなかった。
仲良しのみんなも忘れているみたいだったが、七瀬は気が付いていた。
(……エアガンだ)
きっと、駄目だったんだ。
そう思って達哉を連れ出して聞いたのに、達哉は悲しそうに首を横に振って、親の事情だからと建前を繰り返した。
責任を感じて欲しくなかったんだと思った。達哉は絶対に何かを人のせいにしない奴だった。
達哉君はたった一言、『ごめんなさい』とだけ呟いた。
それ以上、何も追求できなかった。
水琴七瀬は、転校しても彼と連絡を取り続けることに決めた。
そして、実際にそうし続けてきた。
転校しても。中学生になっても。高校生になっても。親にも話して家族ぐるみの付き合いを続けた。
部活の大会で会えるのがいつだって楽しみで練習していた。
転校してからの達哉君は変に明るくて、ふとした表情がいつだってひどく暗かった。
次の大会でも会おうなって約束していたのに、高校生の夏、彼は大会に来なかった。
海外に行ったって聞かされた。そんな連絡は、誰からも、ひとつもされなかった。
今にして分かる。UGNに引き取られたからだ。記憶処理だ。
昔からの友達で今の黒峰達哉の立場や居場所を知っている奴なんて、もうきっとほとんど誰も居ない。
──どうしたかったの
──何も無いよ
──何もなかったら親と言い争ってキレたりしなくね
──将来なんて
──他に考えたことも無い
──覚醒の話なら
──彼女の事で、黒峰美玲が言ってはいけない事を言ったから
──それだけ
──その子と付き合いたかったんじゃないの
──付き合ったよ
──いいじゃん
──でも少し疲れた
……疲れた。
初めて聞く弱音だった。思えば。幼馴染なのに。
彼は、もうすっかり全部諦めてしまったのだと思っていた。
──誰に言われたの
──家に甘えてたって
──有栖さん?
──違う
──有栖は怒ってくれた
──でも甘えてたかもしれない
──オーヴァードのちょっとした知り合い
何故甘えてたかもしれないなんて彼が思うのだろう。
水琴七瀬は、黒峰美玲が嬉しそうに達哉に抱きつき、家ではいつも率先して手伝ってくれて甘えたがりで、全然反抗期もなく親離れしない子なんですよ、なんて、嬉しそうに語っていたのを思い出す。
その時の達哉の表情は、そんな素直な甘えん坊がするとは思えないような、ひどい薄ら笑いだった。
──そいつ達哉君のこと知ってて言ってんの
──知ってるようだった
──チルドレンから情報抜けてて
──UGNじゃないやつ
「……なんだそれ」
素直に呟いた。ひどい暴力沙汰に巻き込まれていやしないかと、水琴七瀬は彼の身を案じた。
そもそも、この際、はっきりさせておきたかったのが、水琴七瀬はUGNについても何ら信用をしていないということだった。
水琴七瀬としては、一般人に対する問答無用の記憶処理だって懐疑的だった。
もっと、人を信じても良いんじゃないかと思っているからだ。
こんな風にオーヴァードだけに負担ばかりを掛けさせておいて、協力しろだの、随分都合が良いとは皆思わないのだろうか。
ましてや、さらに振り返ったのが。黒峰達哉に久し振りの再会をした日のことだった。
事件に巻き込まれた小さな女の子を安全なところまで送り届けたとき、処理班のチルドレンに対する会話を水琴七瀬は聞いていた。
『状況にチルドレンの部隊が投入されてから、随分作戦進行が早くなったな。俺たち、いなくても良かったんじゃないか』
『何言ってるんだ、処理する死体が増えるんだから仕事は増える一方だろ。この発生量じゃジャームの保存施設も追いつかないから、どれも殺処分だろうし』
『それもそうか。しっかしジャームだって元は人なのに、チルドレンは容赦なく殺していくよなぁ』
『子供の方が残酷ってのはよく言う話だ。それにあいつら、生まれたときからオーヴァードだったり、物心ついたころからそうだったりして、教育はレネゲイドの取り扱いが急務ってんで。結局、衝動の抑制と戦闘訓練ばかりで人間の生活ってやつを知らんのだろう? そんな危ない子供、人間って呼べるのかねぇ』
『高校生くらいでも親元離れて中途採用、ってのもあるらしいぜ。最近だと、親族が大嫌いな覚醒者で入ったとか』
『あぁ、それ、まさに今回先陣切って行った奴だろう? 知ってるか? あいつ、母親と喧嘩してキレて銃口向けたのが覚醒のきっかけらしいぜ。殺人未遂じゃんな』
水琴七瀬は完全に立ち止まった。まさか。もしかして。そのまま聞いていた。
『キレる若者ってやつか。怖いねぇ~。思春期のガキなんて動物みたいなもんなんだから、それがレネゲイド能力なんて持ってたらそりゃUGNも世間に出せんよ。やっぱり利用方法としては、こういう時の“生きた兵器運用”が妥当だな』
『俺たちの代わりに全部やってほしいもんだ……そしたら、俺はのんびり真っ当な生活ができるのに』
水琴七瀬は拳を握りしめていた。よっぽど殴り掛かってやろうかと、一歩を踏み出しかけた。
『……そういや、さっき歩いてった女の子も母親が死んでたんだって? 覚醒もしてるし、あれもチルドレン入りだな。日常生活なんて無理無理。ご愁傷様だよ』
水琴七瀬は目を見開いた。さっきまで手を繋いでいた女の子。ワーディング下で確かに自分の足で歩いていた。ああ。そうか。
『あれは、どんな化け物に育つやら……。あるいは、どっかで失敗して死ぬかもな』
水琴七瀬は力が抜けた。無力だった。あまりにも。できることがなかった。
代わりに、振り返った。せめて。せめて。
……そう思い、作戦が終わるまで待ち、撤退前の黒峰達哉に何事もなかったかのような調子で声を掛け、しつこく連絡先を聞いた。
再会した幼馴染に取るとは、しかもあの達哉君がとは思えないくらい鬱陶しそうな態度を取られながらも、何とかして再び得た、黒峰達哉の連絡先。
そうして日頃、日常的な雑談や些細な相談ごとを気まぐれに吹っ掛けては、次第に相手も昔ながらの調子でやりとりをかわし……。
今に至っていたのだった。
――なにそれ
――報告はした?
ずさん。
ずさんだ。
身元を引き受けたなら、そいつのことは断固として守るべきだ。
UGNチルドレン施設というのは、どうにも信用がならない。水琴七瀬はそう思った。
――しない
……しない?
彼の仕事への忠実さは、ここしばらくのやり取りで察していた。
――なんで
――相手にも事情があるんだよ
――どんなよ
――まじで電話できないの
半ばいらだたしく思いながら返信する。
彼の狼狽を画面越しに伝えるかのように、返信には数十秒の膠着があった。
――支部長に聞かれる
水琴七瀬は、深すぎる溜め息を吐いた。時計をちらりと見やる。午後10時過ぎ。もう、知ったことではない。
――中央公園
――広いし誰もいない
――待ってる
ただそれだけ送って、水琴七瀬はハンガーに手を掛け上着を羽織った。