
── Crumble Days
◆ Scene2:覚醒 ──
──上の立場に立つ者には、選民思想の悪魔が呼びかける。
人であったはずの対象を苦しませずに眠らせられるのなら──
醜くジャーム化するほど理性のない落伍者を殺せるのなら──
一瞬でも早く殺してやる方が良い。
「≪漆黒の御曹司≫“アナーキスト”。頼んだぞ」
「承知しました。──支部長」
◆
さらりとした黒髪に、日本では珍しい褪せたグリーンの瞳。
世界でも珍しいその瞳の家系は、何世代か前にドイツの高名な家系と交わった研究者一族の証だった。
――黒峰家。
こと、“彼”の祖父は、国内外からも有名な遺伝子工学の大家だった。
ヒトゲノム解析のうちに、優生学の必要性に目覚めてしまっていたのだ。
親戚一同はすっかりその思想を喜び、自らが優位の側だと信じて疑わず、祖父をもてはやし、子に語り継ぐ。
後に“UGNチルドレン”として家を出ていくことになる少年──“黒峰 達哉”。
彼の両親もまた、そんな腰巾着のうちの一人だった。
哀れとまでは言いきれない。何故なら、両親も含め、この一族は実際に優秀だったからだ。
誰一人として落伍者は出ない。出さない。いつしか、失敗を許さない家庭が出来上がっていった。
「あなたは他と違って優秀な子なんだから。いつも礼儀正しくして、頭の悪い人に目を付けられたりしないようにしなさい。夜は早く帰ること。友達はきちんと選びなさい」
達哉は、そう言われて育ってきた。学問も実技も、日に日に背伸びが苦しくなる。
そんな時に出会った彼女。同じクラスの目立たない子だったが、読んでいる本に興味を持ってある日話しかけた。
次第に親しくなり、家でも連絡を取り合った。気が付けば、彼女に淡い恋心を抱いていた。
――その日は訪れた。
電話越しに好意の言葉を伝えたとき、母親にバレたのだ。
くどくどとした説教。
ヒステリックな暴言。
手あたり次第の暴力。
謝罪を繰り返しながらそれを受けていたその時だった。
引き金は、母親の言葉だった。
「そんな劣等種と付き合うなんて! あの野豚の父親なんて、下らない成金小説家なのよ! そんなところの子供なんて、生まれなければ良かったのに!」
全身が熱くなった。血液が沸騰する。視界が暗くなる。――いや、眩く照らし出される。
自らの左手に握りしめていたのは拳銃で、その銃口は母親に向けられていた。
今まさに引き金を引こうという時、窓から……ここは三十六階の窓から、見知った声が投げかけられた。
「はい。ストップ。ストーップ。駄目だよたっちゃん。……でも、ありがとう」
微笑む彼女は、UGNエージェント。
そう。達哉の恋人は、オーヴァードだった。
……それから後のことは、正直達哉もよく覚えていなかった。
“レネゲイドウィルス”のこと。
“オーヴァード”のこと。
“UGN”のこと。
彼女が今まで任務のために年齢と名前を偽っていたこと。
母親が達哉の覚醒を優秀さの裏付けとして喜んでいたこと。
……全てどうでも良かった。達哉はUGNの施設に引き取られ、彼女の担当している裏方部署を手伝うことになったのだ。
そこで出会った新しい仲間たちにも、素直な好感を持った。
自分より幼くとも優秀な少女、テレーズ・ブルムのことも。
その新しい日常を護れるのなら、どんなことをしてもいい。
テレーズ・ブルム。弱冠15歳にして、UGN評議院のメンバーである天才少女。
彼女は、非オーヴァードでありながら、穏健派として多大な貢献を果たしていた。
彼女の優秀さには素直な尊敬の念と、自分より年下の人間に対する庇護欲が出てくる。あの歳で、それにオーヴァードでもないというのに──つまり、レネゲイドの力なくして──強者かつ曲者揃いの大人たちを相手に統率を取っている。
自分より下の者は、護ってやらなければならない。そういう念に強く駆られた。
……下? ただ、歳が下だから? 年下でも自分より優秀なのだから、自分の方が下なのでは?
もしテレーズ・ブルムのような子が恋人だったら、母親は、親族は祝福してくれたのだろうか?
あいつは? 俺より、上か? 下か? ……このような上下に拘ってしまうのは、一体何故だろう?
……まさか、俺は無意識に人を“優秀か否か”“遺伝的に優れているか否か”で判断しているのか?
冗談じゃない! 俺は彼女のことを優秀だから好きなんじゃない。テレーズのことも、健気で努力家だから、少しでも苦労させないようにしたいだけなんだ。きっと普通のことのはずだ!
……普通って、なんだろう?
もっと平凡な人生だったら、こんなこと、苦しんだりもしなかったのだろうか。
――ああ。“私は”普通の人々のために、誰よりも優秀に働かなくては……。
……この苦しみは、ますます達哉の心を苛み続けた。
そこから逃げたいばかりに恋人に縋り、縋らせ、それらに溺れきらないよう“また”爪先立ちをはじめるようになった。
ひどく思い悩み、必死に“そうではない自分”を演じることに慣れてきてしまった頃。
UGNの総合施設情報部から、N市支部に配属されることになった。
聞くに、より実戦的な施設らしい。今までやっていたのは、新規オーヴァードやジャーム及びその予備軍を感知し次第、その前線組 織である都市支部に伝達を送り、そこから上がってきた調査報告書をまとめる部署だった。今度はその前線組織の一員──つまりは、実戦闘員として──仕事を担当することになる。
民間には“キッチンにし”という大衆食堂としてカモフラージュをしているということであるので、平時はそこのバイトとして振る舞うことになるだろうと告げられた。
──UGN高等教育機関で学問を学びながら、平時は一般のバイトとして振る舞い、有事には、UGNチルドレンとして実地調査を行い……最悪“ジャーム”との戦闘をする。
「……俺に、できるかな」
いつになく弱音を零すのは、いつだって恋人の前、涼宮有栖の前だけだった。
「できるよ。たっちゃんなら。優秀だもん。……それに、できなくてもいい。絶対に生きて帰ってきてくれたら。それでいいんだよ」
優しく手を重ねる温もり。
それに安堵し微笑み返すその内心すら、常に不安と恐怖でいっぱいだった。
配属先として出会った支部長は、不思議な人だった。
“支部長”と“店長”。二つの顔を使い分ける、大人だった。
裏表のある人は嫌いじゃない。だって自分がそうだから。
ある時は軽薄に思えるほど気さくな店長として絡み、ある時は無駄口を叩かず悪を睨み的確な指揮を執る支部長。
本当に持つ顔がそれだけなのかはどうでも良い。わざわざ詮索されたくない。自分なら。
時折お節介なくらいに声を掛けてくるのはきっと、自分がその場にいるどの人よりも優秀だから。大人は皆そうやって人を評価してきた。そうでないとすれば、自分がそんな基準で動いていないと否定したいから。だって自分がそうしてきたから。
……本当は、それ以外の価値基準があるんだと、人それぞれの生き方があるんだと信じていたい。ところが、まだ分からない。結局は親と同じ物差しでつい人をはかってしまう自分に、ひどい嫌悪で吐き気がする。
それを収めるために自分がやるべきことは、ただひとつ。
“誰よりも優秀に”“誰よりも人のために”与えられた仕事をこなし続けることだけだ。
“アナーキスト”。自らのコードネームに選んだその思想の体現。
UGNに引き取られていなければ父の事業を継ぐはずだった自分とも、光を扱う“エンジェル・ハィロゥ”のシンドローム特性とも真逆の、漆黒の思想。――私にできるだろうか? いや、必ず体現してみせる。私は、他の誰でもない私なのだから――
◆
――N市市街。
黒峰は、現在UGNの活動の一環として“矢神 秀人”という人物を追跡調査していた。
矢神 秀人には、UGNの情報部から“ファルスハーツ”のエージェントではないかという嫌疑がかけられている。
成績、運動ともに普通。部活は帰宅部……。学校のどのクラスにもいるような目立たない生徒。それがここ数日の調査で確認できた彼のプロフィールだった。
今日もN市で、矢神 秀人の尾行を続けていた。
(しかし……プロフィールを見る限りはいたって普通で目立たないが……これが本当にファルスハーツのエージェントなのだろうか? ……務まるのか? いや、でも、これが高度なカモフラージュなのかもしれない。要監視、といったところか……)
と、黒峰が資料を覗いて正面の矢神秀人を捉えようとすると、いつの間にか矢神秀人を見失っていた。
「なっ……」
――まさか、気付かれたのか?
そんな不安が過ぎた瞬間。
派手な音を立てて、一台のバスが目の前で横転した。
「――何事だ!? 急に横転!? なにか事故――……いや、周りの様子がおかしいな。ただの事故ではなさそうだが……」
そんな事故が起こっているというのに、あたりは時が止まったように静まり返っている。
「これは……まさか……、――《ワーディング》か!」
《ワーディング》エフェクト。
それは、“オーヴァード”にしか使えないはずの、超常的な力。
黒峰が警戒すると、燃えさかる炎をビルの上から見下ろす人影を見つけた。
「――ふん、これで……ようやく目覚める」
目を凝らすが、距離が遠い。それが誰かまでは視認できない。
「そこにいるのは……動いている。――……ッ一般人じゃないな、アイツ……!」
その人影が黒峰に気付いたように、動きを見せる。
「――ちっ。もう来たのか。早い奴らだ」
《瞬間退場》。
その人影は、一瞬で姿を消す。
そんな芸当は、人間には……“非オーヴァードには”絶対にできない芸当だった。
「やはりアイツ、“オーヴァード”か。まさか、ファルスハーツの……。クソッ、どこに行った……」
周囲を見渡しても、当然見当たらない。
ファルスハーツは見失うが、燃え上がるバスのすぐ近くに二人の人影が映る。
一人は、横たわった少女。もう一人は、異形に変貌した高校生。
「オーヴァード……?」
その高校生は、女子高校生を抱きかかえ、そのまま気絶していた。
「……救出した、ってことか? ……なら、あのオーヴァードは……」
黒峰は安全を確認し、直ちにどこかへと連絡を掛け、事態を報告した。