
── 黒峰達哉の狼狽
◆ Scene1:あれから ──
あれから数日。
ここで言う“あれ”とは、二件ある。
一つは、久遠緤との口論。
黒峰達哉はまず、久遠緤との最初の邂逅時点で自分の情報が抜かれていたことに負けん気を起こしていた。
帰宅次第即日、UGNのデータベースを検索してファイルをまとめるのみならず、執念の尾行をこなして彼の拠点を特定。
根城としているホームレスの子供たちの家を突き止めた。
そして誰も居ない隙を見計らい、盗聴器と隠しカメラを手慣れた調子で複数個所に設置。久遠緤の著しく治安の悪い身の上を確認した。
そんな久遠緤の状況を知った黒峰達哉の感想は、こういうものだった。
“彼は、仲間と共に自由の為の自立した戦いをしている。……羨ましい。”
今日日この現代日本社会において、彼ほど治安の悪い生活を送る15歳もそういたものではない。
彼のFHで受けた悲惨な扱いとそこから来る大人への極めて強い警戒心、それによって現在彼らホームレスの子供たちが行っているその生活水準の低さといえばとても無残なものであり、その明日の生死すら危うい生活は到底誰かが憧れるべき生活ではなかった。
そんなものが羨ましいなどとは、口が裂けても言えたものではない。
そんな浅ましい台詞が吐けるのは、どん底の生活を知らない世間知らずの馬鹿な金持ちだけだ。
漆黒の御曹司などと呼ばれ、アナーキストと読みを充てるような男、黒峰達哉は、まさしくそんな金持ちで、酷い卑屈さと羨望で葛藤しながら彼らの生活を監視していた。そこには憎らしさなどはない。ただただ、その映像と音声をリアルタイムで確認している間……その間だけは、彼らと同じ生活をしているような、そういう気になっていたのだ。
彼の久遠緤に対する感情は、同情と、劣等感だった。
そういうわけで、黒峰達哉は次に久遠緤と出会った時、まさか久遠緤と口論をするなどとは思ってもみなかったのだ。
たまたま予想外のタイミングでなければ。たまたま侵蝕率が高くなければ。たまたま不快な相手に不快な煽りを受けていなければ。たまたま任務を外されていなければ。もしかしたら仲良くできたかもしれないのに。
今となっては、美味しい食事と暖かい風呂ですっかり気を良くして懐くような素振りを見せてくれている久遠緤だが、その本心がどうであろうと思えば、黒峰達哉は毎日気が気でない思いをしていた。
振り返るのは口論中の彼の言葉。
『はっぁああ!? なんも分かってねーのな! この苦労知らずのお坊ちゃんがよ!』
『その家にいつまでも甘えてたのは誰だよ! 出てるったって、覚醒してなきゃどうせ今もボンボンやってたくせに!』
黒峰達哉は恐怖で怯え、震えていた。全て、その通りだと思ったからだ。
もう一つは、“ストリートマジック”との遭遇。
通りすがりのFHエージェントの彼が煽っていったのは、黒峰達哉の内心に燻っていたUGNへの不信感と未来への不安感。
振り返るのは提起した彼の言葉。
『思考実験ですよ……小を切り捨て、大を守ろうとするあなた達の。』
『……君がそれを唱えるのは、まだ早い。次会うとき、また同じ質問をすると思うので、また答えてください。』
黒峰達哉は次々と浮かぶ悪い予感に圧倒され、身動きが取れなくなっていた。
“次”とは一体何なのか。UGNに属している自分に一体どんな不条理を問いかけたかったのか。外へ出るのが怖い。
黒峰達哉は悩んでいた。
それはもう、明確に。
彼は気を病むストレスが掛かると、まず過去を追体験する。
思い出されるのは、母親の暴言暴力のトラウマ。
次に反芻するのは、それに対する恐怖と怒りといった自らの感情。
その際限ない追憶と感情の病んだループから抜け出すべく、無意識に逃げる先は日頃の規則正しいルーティン。
学校と、勉強と、バイトと、仕事。
過去や内省なんかよりも、今この時目の前の現実である義務や規則に取り組んでいかなければならないという強烈な義務感が彼を駆り立てる。
それは側から見れば立派な昇華に見える。が、実際は違っていた。
彼の内情はもっと混乱していて、幼く泣き喚いていて、しかしその童心を一気に跳ね除けて風呂に沈めて蓋をして、重苦しい漬物石の固い封をした上で、大人ですという澄まし顔をして大人の社会に良い顔をしようとするものだった。
醜い自己虐待と逃避だった。
彼は睡眠時間さえ削って勉強し、一日たりとも休みを作らず、別の市の仕事さえ請けて飛び出していった。そうすれば、何も義務以外の難しいことは考えなくて済む。それがここ数週間の黒峰達哉だった。
そこに、先の二件だった。
黒峰達哉は悩んでいた。
せっかくN市で良い仲間を認めて信頼しかけていたというのに、境獄市や他の市にまで入り浸って年齢に見合わない仕事ジャンキーを続けた結果、支部との“絆”を忘れつつあるのがまず原因の一つだ。
原因のもう一つは、彼は単純に未知の可能性を示されることが大いに苦手だということだった。
せっかく慣れたルーティンを組んでそれに従っていさえすれば間違いないという思考停止ができていたのに、異なる価値観や可能性をぶつけられて自らの信奉する公的なルールが覆されようとなると、激しい動揺と不安を感じ、公的なルールという確からしいもので必死な反撃をしなければ気が済まなくなる。
結果、先の二件である。
しかし、これは先の二件だけではない。犬獅子大和との喧嘩の原因もまったくこれだ。
結局、何かに常にしがみついていなければ不安と恐怖でいてもたってもたまらず、自らの保身で頭がいっぱいなのだ。
周りが見えない幼稚さを、外面を確保する完璧な実力でごまかし、敵と思ったものを高慢な態度で攻撃する。
──それでは、自分はあの憎らしい傲慢な親族たちと同じなのでは?
黒峰達哉は病んでいた。
水面下で激しく、グルグルと円を描くように。
実際に現実でどのような有様だったかといえばまず、夜中に何度も目が覚め、睡眠時間の不足でふらつく体を必死に律していた。
周囲に取り繕うリソースが失われ、表情に焦りが常に滲んでいた。
それでもノイマンシンドロームのおかげで、日常業務のありがちなケアレスミスは存在しない。
従業員のミスに対するいつもの語気が鈍り、何かを言うことを控え、黙ってカバーをする。
業務に差しさわりなどなかった。
そのはずだったが、仕込みの最中に包丁でざっくり指をやり、慌てて手を洗い食材を廃棄する。
学校でも、授業中に当てられて気が付くまで5秒掛かる。
回答にミスはないので、誰も気が付くはずはない。
そのはずだったが、所属する市の支部長にある日何気なく完全な休日を言い渡される。
(それって、私は無能だから要らないということですか)
そんなわけもない抗議を飲み込み、素直に承諾してみせた。
黒峰達哉は落ち込んでいた。
丁度良かった。しばらくどこにも行きたくなかった。
タイミングが良いのか悪いのか、その日は同室人の犬獅子大和が家の方に帰っている日だった。
久々の、完全な一人の休日だった。
(……なら。有栖を誘ってどこかへ行こうか……)
億劫だった。黒峰達哉は今、誰にも会いたくなかった。
彼女にも、誰にも連絡を取りたくない。
人と、話したくない。誰の側にも居たくない。
病気でもないのに、こんな日中に布団を敷き直して横になってみた。
思えば、人生で一度もしたことのないことだった。
何故だかひどくずるいことをしている気になったが、それよりも心と体が重かった。
そのあまりに鈍い重みに目蓋も負け始めて、次第に、静かな眠りへと落ちていった。