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―HISTORY

Episode4 A.P.241
​在りし日の大英帝国

  イギリス、エスカタワーの展望台。

 十二年前に登場した情報革新の象徴は、長らく続いていたロンドンの景観規制を遥かに超越した。

 いかに人口が延びようとも、いかに近代化の波が押し寄せようとも、いかに不景気であろうとも、この国は広大な土地を"景観保護"の一点で、古くから続く煉瓦造りの景色そのままに守ってきた。歴史的価値、芸術性、観光資源。在りし日のロンドンの保護。その為にずっと、この誇り高く陰鬱な曇り空を破るビルを建てることを許さなかった。

 それでもやはり国際社会の波は荒いもので、自由経済の中でありったけの大暴れをしたいと目論む資本家たちは、そのロンドンの景観を、歴史を切り売りすることを迫り続けた。

 少しずつ、少しずつと後退するように、空へ空へと伸びていったいくつかのビルは、そっくりそのまま、かつての栄光にしがみつき続けている大英帝国に突き付ける喉元のナイフだった。

 ついに完全に食い破ったのは青白い――不健康な情報通信塔。

 総合通信企業ESCA《エスカ》がついに曇り空に長槍を突き刺したのだ。

 国を殺すのはもはや国ではない。企業だ。

 誰もがわかりきっていたはずのことを、それでもどこか遠い新大陸の出来事と見ていたい気持ちでいた島国の人間は、青白い刃に心臓を突き刺されて初めて現実のものと知ったのだろう。

 もう遅い。帝国は二度の大戦で疲弊し、世界中の植民地から立て続けの独立を訴えられて、終いにはその入植先のひとつであったはずの新大陸に世界の覇権を握られてしまったのだ。もはやこの国にかつての力はなく、ただ周辺の、それも領土すら持たない企業というものの顔色を窺って媚びへつらうだけの没落帝国に成り下がった。ナイフどころか長槍を突き立てられて、抵抗する余力はこの国にはないのだ。

 煉瓦造りの古い街並みから、飛びぬけたように空へと延びる塔を見て、街中に響き渡るビッグ・ベンのチャイムの音を聞きながら、イギリス人は嘲笑するのだ。産業革命よりずっと以前から変わらない、重苦しい灰色の雲にお似合いのとびっきりの皮肉を込めて。

  そのような塔の内側に、クロラは来た。

 彼もかつて、一時の間だけこの国の紳士の皮を被って生きていた。

 当時は大英帝国も未だ世界のリーダーのうちの一人として充分にふんぞり返っていたように思う。

 確か、遥か遠い極東の島国が、凍らない港を欲しがった極寒の帝国の艦隊を打ち破ったといっていた。

 あれは我々イギリス人の指導と援助のおかげなのだと表では言いつつも、肌の黄色い猿とばかり思っていたものたちがここまでやるとは思いもしなかったという様子だった。

 それが今やその猿に経済力で追い抜かれているなどと当時の紳士たちは信じただろうか。

 展望室からロンドンの全景を眼下に収め、元紳士は鋼鉄の手擦りに肘をつく。遥か下に小さく、ロンドンの象徴ビッグ・ベンがひとつまみのサイズで縮こまったように置かれているのがよく見える。元紳士は鼻で笑うこともしなかった。

 彼は元々最初から英国流の紳士などではなかったから、誰彼構わず嫌味を並べたてる様な性癖は持っていない。そういえば、それ以外はまさに絵に描いたような英国紳士であるというのに、聖人君主でどこか胡散臭い、と誰かが言っていたっけか。

 あれから実に百十四年。人間の寿命は短いものだから、その発言主はもはや生きてはいまい。

 あるいは、寿命ではなく、戦争で死んだかもしれなかった。どこぞの陸軍元帥が志願兵を集めたがっていると、そいつは嬉々として手紙に書いて送ってよこしてきた。クロラは、それを当時彼女と滞在していたベルギーで読んだのをよく覚えていた。

 彼女は強かな女性だったから、愛する彼氏がいなくなっても無事に大戦を乗り切ったようだったが、あの調子の良い男は果たしてどうだったであろう。孤児が母なる帝国の威信の為に死ねるのであればそれは充分幸福なのであろうか。

 当然、クロラの理解の及ぶことではない。彼女が家の名誉も身の安全も何もかもを捨ててイギリスから離れ逃避行を演じたかった気持ちも、彼が戦争を憧憬していた気持ちも。彼らはクロラが真に紳士ではないことを知っていただろうか。いっそその方が、都合が良かったのだろうか。かの元帥は戦争に対する悲観論を聡明さと取ったのだが、戦争に行くのはただただ己の目的に合致しないからというだけだった。

 今ならば、己の正体を全て明かしても構わないような気がしている。明かすべき相手は揃ってこの世にいなくとも、全ては欲望のための一興だったのだから構わない。

親愛なる我が隣人たちへ

 やあ、親愛なる我が隣人たち。あれから百十四年振りになるのかな。

 今や大英帝国はすっかり没落して、世界中の植民地を手放したと聞いたよ。

 それはとても残念なことだ。だって、貴方たちが愛したものが弱ってしまったんだからね。

 男たちは戦争に行き、女たちは帰りを待ち、その成れの果てが物言わぬ死体とは。

 帝国はついに、厚い雲の隙間から陽の落ちるのをただ静かに見守ることになったんだ。

 けれども、ああ、この僕が今見ている景色を貴方たちにそのまま見せることができたなら。

 貴方がたの威厳はあの頃からひとつも変わりはしない。

 分針は時を刻み、夜も窓の内側がキラキラと輝いて、月の潜む空を強かに楽しんでいる。

 植民地が彼らの自治領になったからって、それがなんだというんだろう。

 移民が増えたからって、それがなんだというんだろう。

 この景色を見よ。英国人は誇りをもって、この土地に住み続けている。

 どこまでも強かに、愚かしく、自らの尊厳を信じて生き続けている。

 自らの境遇を嘲り笑いながら、日々を逞しく生き続けている。

 この美しさがわかるかい。

 若い者たちは心底生きるのを嫌がっていたように思ったものだけれども、それも、僕は心から愛していた。

 貴方がたが泥の中で唸りを上げながら手を伸ばしているのを撫で上げるのが、心底からの僕の愛情だ。

 すべて、一切が、僕はただ、何もかも、貴方がたの体が目的だった。

 貴方がたの心は常に生と死の狭間にあって、その浮き沈みが鮮やかな蝶のようにひらひらと僕の目を奪う。

 どのような屈辱を受けても、嘲りと共に泥の中を力強くかいて息を吸おうと必死にもがき苦しみながらただ浮き続けている。

 これ以上に豊かで、痩せていて、見事で、面白く、醜く、愚かで、賢く、美しいものはないのです。

 僕は、心から貴方がたを愛しているし、これからも変わることはない。貴方がたの威厳と同じように。

 なにもかも、それでいいでしょう。

 世界など、はじめから必要ではなかった。

 もしくは、再び栄光の時へ返り咲こうと希望して、絶望を抱えながら生きるというのも、魅力かもしれない。

 もしかしたら、僕はそういうところを貴方たちに求めているのかもしれないね。

 死を憧憬しながら、権威を嘲笑しながら、自らの尊厳を持って、そして権威の為に死んだひとたち。

 まるであの頃と何一つ変わらないように、インクで手紙をしたためたから、ここから送ろう。

 空から舞い落ちるから、どこの誰が拾うかもわからないし、あるいは、テムズ川に飛び込んで駄目になるかもわからないけれど、

 それでも、そう。

 これは、他でもない、貴方がた人類に向けたものだから。

 どうか、大切にとっておいてくれたら何より。

 

                            Charlesより、愛を込めて

 当時を懐かしんで揃えたインクペンと封蝋で用意した手紙をジャケットの下の胸ポケットから取りだすと、手擦りから身を乗り出して、メンテナンス用の小窓を開け放した。

 途端にあまりに強い突風が鋭く吹いていったが、決して手紙を手放すことはしなかった。

 そうして、風が収まるまでを耐え忍んでから、髪を払ってその景色を直に見た。

 ああ、今のロンドンの街並みがよく見える。二千年前のローマ帝国の時代から、ずっと丁寧にこの街は育てあげられ続けてきた。

 ロンディニウムは、今も人々の沼地の砦としてグレートブリテン島に住まう全てを支え続けている。

 最早なにもかも、一切が懐かしい。過去に思いを馳せてみるなどと、クロラにとってはほとんど初めてのことだった。

 だから、そう、この場にいるはずもない人々に向けて、手紙を書くなどという奇行もしてみたくなったのかもしれない。

 全ては欲望のための一興だから。

 手紙の端に別れの口付けをして、窓の外へと手を伸ばし、静かに手を放した。

 風にさらわれて渡り鳥のように風に乗っていき、ひらひらと、抜け落ちた天使の羽根のように落ちていく。

 すっかり満足して、鋼鉄の柱に背を預けて地平線を、陽の沈んだ帝国を見守っていた。

 

  窓をすっかり閉じて、襟元を整え、クロラは在りし日の大英帝国に背を向けて帰路についた。

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