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―HISTORY

Episode4 A.P.241
クオリア、そして少年が決意するまで

 

 

 

  昼の真っただ中に、クロラはその長身を寝転ばせていた。談話室の何の変哲もないソファは、クロラがこうするにはやや小さい。

 頭の後ろで手を組み仰向けになって、折った膝が突き出て重なり合い、反対側のひじ掛けの上に革靴が乗っている。

 そんな体勢を取っておきながらクロラは本当に寝ているわけでもない。意味もなく目を閉じているだけだ。

 そういうところに、ユヅキが近付く。

「……クロラさん、寝ていますかね」

「起きているよ。なにかな」

 この少年の呼びかけに応えるか応えないかは、少し考えた。

 寝ていると判断したユヅキがどうするのかを見てみたいとはクロラも思っただろうが、得がないと判断した。

 つまり、すぐに帰ってしまうだろう。それに、この少年に隙を見せることはよくない。

 余りにもすぐに、それも冷静に返事が返ってきたことに少々驚きながらも、ユヅキは用件を話し始める。

「クロラさん、僕が手に持ってるこれはなんですか?」

 知能テストのつもりかなにかだろうか、しかし今更なんだろうか。と思いながら、あるいは、頭をからっぽにしながら、クロラは片目を開けてそれを見た。

 ユヅキは随分と真剣な顔をしている。

「林檎だね」

「何色ですか?」

 畳みかけてくる。

「……赤さ」

「……本当に?」

 本当に?

 普通であれば意図の分からない質問なので、クロラは普通の人がそうするように黙ることで続きを促した。

 しかしユヅキにはそれは、もっと意味の深い沈黙に思えていた。

「あなたの言う"赤"と、僕の言う"赤"は、本当に同じ"赤"ですか?」

 ここまで聞いて、クロラはピン、ときた。

 でもそれをそのままこの少年に言うと、話が通じると思われるかもしれない。

 話が通じるとか、頭が良いとか思われるのはクロラにとって不都合だ。

 なぜって、見込みがあるとして何らかの社会的地位につけられてしまうかもしれない。

 社会的地位! クロラにとってはしがらみ以外の何物でもない。あって便利な事はあるが、不便な事の方が圧倒的に多い。

 十分、他人に寄生しながら生きていける。それなのに、この"アークス特例"で"エース"で"守護輝士"のユヅキ少年に、気に入られてしまうのは御免こうむる。

 それでもクロラが発した単語はいつかどこかで聞いたラテン語由来の用語だった。

「"クオリア"だね」

「はい、そうです。あなたは一応僕やみんなと会話ができているようだけど、本当に同じ感覚を持っているのかが気になるんです」

 用語を投げかけられて、ユヅキは特に驚きもせず冷静に続けている。つまり、このぐらいの会話はできるものと踏んで話しかけている。

「それで? そんな話を俺にしてどうするの? 勇者君やあの陽気な女性にも同じ質問をしてみればいいじゃないか。どうせ未解決なんでしょう」

「そうですね。そもそもこれは『同じ人間どうしであっても、クオリアの一致を確かめることはできないんじゃないか』という話ですから……。でも、あなたにこの質問をした意味はあると思ってしていますよ。今の反応で」

「君はなんだかんだ、そういうところがあるからね」

 曖昧に理解した風なことを言っているが、クロラが本当に"そういうところ"とやらを理解しているかは誰にもわからない。

 ただでさえクロラはこういう時、いい加減なことをいうものだ。なおさらわかるはずがない。

 それでもなんとなく、どこか通じ合っている気がしてしまうものだ。人間の会話なんて所詮そんなものだ。

 ユヅキは案外賢く既にクロラの特性をどことなく見抜いているのか、あるいは馴れ合いに興味がないのか、"そういうところ"とやらに何も触れない。

「あなたは赤外線や紫外線などの不可視光線が見えている可能性がある、って前にレポートに書かれていたのを見たんですけど、本当ですか?」

「さあ? 可視だの、不可視だの、それこそ人間が決めたことじゃないか。俺が仮にその"ナントカ線"が見えていたとして、何か嬉しいことはあるの?」

「研究員の方々は嬉しくなったかもしれないですよ。その点におけるあなたの振る舞いがあまりに一律じゃないもので、ただの偶然だったのかもしれないと残念そうに付け足されていました」

 クロラにとって、学者は得意な人種ではない。

 とりあえず餌をちらつかせて食いつかせる分には楽な獲物ではあるが、そこから先が面倒臭い。

 彼らにとって興味があるのは純粋な知識であって、クロラ本人との情愛ではない。

 そこはもう生来のものだから、釣るのは簡単でも、落とすのは難しい。

 だから研究員たちに自らの神秘を切り売りして餌を与えるのはやめている。

 この少年とこれ以上対話を続けるのもよくないかもしれない……。クロラは途端に難しいことはよくわからなくなった気持ちになった。

「まあ、そんなことをいわれても。困っちゃうよ。それで結局、なにがいいたかったのかな?」

「……、実際、物質に対する反応自体はどっちでもいいんです。ただ、感情とかそういうものだけは、作戦行動などどこかに大きな差が生まれてしまうことがあるので……」

「……ふーん? そっか。俺は君のことは好きだし、君の言うことは聞ける範囲なら聞くよ? 戦いは得意じゃないけれど、できることは精いっぱいやるさ」

 飛び起きて微笑みながらそう言うクロラに、さしものユヅキもたじろぐ。

 誤魔化しているようにしか思えないはずだが、実際、顔つきや声色から感じられる限り不思議と嘘をついているようにも思えない。

 普段ならいつも通り、うーんそうですか、なんて言いながら、やっぱりよく分からない人だ、とモヤモヤしながらこの場を離れるユヅキなのだが、今日ばかりはもう少し食い下がってみることにしていた。

「誤魔化さないでください、あなたがどう捉えているか気になるんです」

「……? どうって?」

 しかし、クロラは本当に困った顔をしていた。ユヅキは途端に不安になる。この人は今、本当に何もわかっていないのかもしれなかった。

 リンクが以前、「どうも時々、急に人が変わる。まるで人格を使い分けるみたいに」と言っていたが、もしかするとこういうことなんだろうとユヅキは思った。

 だから、追及する。

「あなたは、僕と違う器官を持っていて、僕と違う論理を持っているかもしれないんですよね。あなたには僕らのいるこの世界がどういう景色で見えているのか知りたいんですよ!」

「どういう景色? うーん……。"今"は"昼"だから"明るい"し、"君"は"青い""服"を"着ている"よ……?」

「それです! 本当に、"今"は"昼"だから"明るい"し、"僕"は"青い""服"を"着ています"か!? あなたにとって今ってなんですか、昼ってなんですか、明るいってどんな"感じ"ですか!?」

 詰め寄るユヅキに、クロラは心底理解できない様で空中に指先を泳がせる。

「……? こんな、"感じ"」

「恒星の放つ光とどちらが"眩しい"と思いますか」

「恒星だね」

「そりゃそうですよね。これは意味のない質問ですよ。"クオリア"って、そうなんですよ」

「なにがいいたいのかな」

 クロラはへらりと笑う。

 ユヅキは林檎を空中に放り投げてキャッチしながら、少年の無垢な眼差しで、真剣に答える。

「さっきから何度も言ってます。あなたから見えるこの世界はいったいどういった景色ですか。われわれの科学で説明できないでいることが、あなたの視点からは日常的にはっきりしていることだったりしますか。なにか、対話するうちにわれわれと違う認識が明らかになったりするんじゃないですか」

 クロラは肩を小さく跳ね上げて、首を傾げた。

「そんなこと聞かれても、わかんない。科学者に聞いたらどうなの?」

「……じゃあ、科学者っぽくて、あなたのような性質の者を、他にいるか知っていますか?」

「……、"俺のような性質"って?」

 ユヅキはそれはもう分かりやすく頭を抱えた。まだいくらか幼い子供特有の、演技性すら感じる漫画的表現で頭を抱えて唸った。

 何か思いついてばっと立ち上がり、まくしたてた。

「いや、じゃあ、別に他の人でなくていいです。あなたが、あなたの感覚で、この世界がどう動いていると"観測"しているか教えてください。あなたの世界が知りたいんです」

「……ああ! そう。つまり」

 クロラの顔が嬉々として晴れあがり、それからじったりとした目つきになって立ち上がり屈んでユヅキの頭をゆるゆると撫でる。

「君は俺の見ている世界がみたいんだ」

 ユヅキは反射的に半歩後ずさる。乗せられている手を振り落とそうと頭を左右に振るつもりで、その前にクロラを軽い抗議で睨もうとした。

 そうして目が合ったがその眼差しで硬直する。

「……本当に、知りたいのかな?」

 真っ紅な瞳の奥底の瞳孔の黒を見て、ユヅキははっとして目を逸らす。

 奥歯を噛んで、それから慎重に言葉を選ぶ。

「僕は確かに科学的興味で聞いています。それ以上でもそれ以下でもないですし、……人間としての感性で処理できる範疇から少しずつ聞きたいのです。ですから人間の文化を一定量把握しているらしいあなたにこそお聞きしているんです。そこから外れるつもりはひとつもありません」

 そう見事な回答を述べながら乗せられたクロラの手を静かに払いのける。

 忘れたわけではなかったが、ついさっきまでの様子を見ていて危うく油断するところだった。

 今、間違いなく、所謂"悪魔"と対話をしている。

 "クオリア"の、"意識"の証明について。

「……やっぱり、都合が悪くなったら演技でもしてるんですか? なんだかさっきと態度が違う気がします」

「どういうこと? 俺は俺だよ」

「すっとぼけないでください」

「"俺は俺だよ"」

 半笑いでそう言うクロラの顔を、ユヅキが目線を泳がせながら盗み見る。

「……もうわかりました。さっきはいい加減に僕をあしらおうとでもしたんですかね?」

「そんなことはないよ。少年。俺は君に喜んでもらうのが好きだからね」

「どういう……、」

 と、言いかけてユヅキは思いつく。

 科学者はきっと、最初は『そうかもしれない』と期待してクロラを観察した。しかしそのうち、『そんなはずはない』と期待してクロラを観察した。

 もしかしたらさっきクロラの態度が変わったのも、身に覚えがないほどのユヅキの機微を読み取って、ユヅキの望み通りに振る舞ったのかもしれない。

 ……などと考え始めた。

 実際のところ……ユヅキは知る由もないことだが……クロラは何かを考えて行動する男ではなかった。何か、心の赴くままに行動して、それがたまたま、あるいは必然のようにして、何かを先読みしてそうしたかのようになる。よく晴れた日の木の下で、ふと掌を上に向けると、そこにすとんと林檎が落ちてくるような。そしてそこへ、ちょうど林檎を食べたかったと美しい女性が来るような……。掌を上に向けてみたことのみならず、その日散歩に出て、その木の下にその時間立っていたことすら未来を予知した結果であるかのように……。しかしクロラ自身はそれを自覚していないのだ。林檎が掌に収まって、美しい女性がそれを見つめているという状況になってはじめて、"これは運命だった"と考えながら微笑む。そういう男だった。

 クロラにとって、何かを考える必要なんてないのだ。もしかしたら、意識を持つことそのものも。

「……わかりました。あなたは"そう"なんですね……」

 ユヅキはそう呟いて、ある一つのことを確信した。

 マルスやユクリータに続き、彼もまた、我々人類が敵意を持って接するべきような相手ではない。

 そして"人間"か"人外"かで分類することに意味はない。

 つまり……。

 クロラはユヅキの僅かな表情の変化にまるで気が付いていないか理解が及んでいないかのような様子で、あるいは、何もかも知っているかのように、曖昧に微笑みかける。

「……僕は、ダーカーとも、他あらゆる生物とも共栄関係を望みます」

「奴隷にでもするの?」

「ちが……、……いえ、そうですね……。差異を認めた上での、なるべく対等性を保持した、反発の限りなく少ない形での統治を望みます」

「それができると信じてくれるのであれば、今すぐこの"首輪"を外してほしいな」

 クロラが指先で首筋を撫でる。比喩だ。クロラの力は現在制約を受けている。そしてその解放権限はユヅキ少年が持っている。

「あなたの場合、好き好んでこちらにいらしたのですから、こちらのルールを尊重してほしいのです。それを抜きにあなたの暴力を自由にしてしまったら、人類との"対等性"が崩れます。あなたは強いんですから、ハンデだと思っていただけたら……」

「とても尊重しているよ? だから、いつも慎み深く行動している」

「もう少しなんとかなりませんか……」

「なるよ。なるし、してきたさ。だから、外してくれる? 息が苦しいんだ……」

「常に検討しています。えぇと、二年間もすみません。でも、その二年間、僕があなたを見ていられなかったので……もう少し様子を見させてください」

「そう。わかったよ」

「ありがとうございます……、と、言うのも変ですかね。あなたはこちらの法を犯した罰則としてそうなっているので……。郷に入れば郷に従え、で」

「俺は努めてそういう"ニンゲン"だけれどね?」

「ええ。あなたはとても賢い人だって思います」

「だけど、傲慢だって考えたことはない? この宇宙はみんなのものなのにさ?」

「……んー、そうですね……。だからこそ、ですよ。この宇宙はみんなそれぞれの所有物なのだから自由に振る舞っていいとしてしまっては、それぞれの生存権利が損なわれてしまうかもしれません」

「ではこの宇宙を創りたもうた神がいて、今ここに顕現されたとしよう。そしてその神は君たちを見て怒鳴りつけ、『歩くな』とお言いになったとする。君たちはその神の"郷"に従い、歩くことをやめるかい?」

 ユヅキは流石に言い淀む。言葉を選んでいるようだ。

「……難しい、ですね。でも、我々が歩くことによって、その神とやらにとっての問題がなんら生じないのであれば、聞き入れる必要はないんです。もし歩くことで神にとって生存権利が損なわれる何かがあるのであれば、もっと別の方法で回避できないか検討し交渉することが大切です。0か1かではいけないのです。それが僕の理想とする、圧制ではない、"差異を認めた上での、なるべく対等性を保持した、反発の限りなく少ない形での統治"です」

「素晴らしく理想的な回答だ。それはとても"理想的"な」

「……そう、なんでしょうか。だとしても、我々にはその理想を叶える力があるんじゃないかって、僕は信じています」

 そう言う少年の瞳は確信を持っていた。昨日今日のものではない。

 マトイを救出したあの日から、ユヅキは確信していたのだ。

 アークスには、フォトンには、理想を叶える力があると。

 クロラがつまらなそうに目を細める。

「ああ、俺は君のことが嫌いだよ。もう気が済んだなら、どこかへ行ってくれる」

「ええっ……、嫌われちゃったんですか? どうして……」

 本当に心底残念そうな顔で笑うものだから、クロラはますます不機嫌になる。

 ああ、つまらない、つまらない。

 ユヅキは最後の話をする。

「あなたとお話しているうちにすっきりまとまりました。僕はアークスとは少し違う、僕なりの理想を目指そうと思います。幸い、アークスの方針とは関係なく働いていいという地位をいただいていますし……どう活かしていくべきか考えていたんです。クロラさんにも協力してもらいたいことが出てくるかもしれませんが、その時はどうかよろしくお願いします」

「俺がやりたくなったらやるさ」

 クロラが投げやりにそう言ったら、ユヅキはニッコリと微笑んだ。

「ありがとうございます」

 すっかり上官の顔だった。クロラは舌打ちした。

 なるほどこの少年は、大物だ。

「くたばれ、理想主義者」

​ そう罵ってみたところ、ユヅキは表情を引き締めて敬礼して、丁寧に部屋を出て行った。

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