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―HISTORY

Episode0
神々の国から 

 姫。
 そのような顔をなさらないでください。
 おれは必ずこの国を、そして貴女を、永遠に護り続けます。
 それが使命なんです。
 この美しい山々を見てください。あの澄んだ湖を見てください。
 この広大な、神々の遺された土地のすべてが、貴女のものなのです。
 それは民も同じです。この地に息づくすべてのものが、貴女のものです。
 この地のものはみな、貴女の心の美しさを知っています。貴女の気高さを知っています。
 この戦いで、貴女がどれほど心を痛めておられるか、世界の誰もが知っています。
 みな、同じように心を痛めているんです。
 姫。
 おれはこの国が好きです。
 美しい景色。生きた風のにおい。これまで助けてくれた人たち。
 おれはこの国で生まれ、育てられてきたことを誇りに思います。
 おれは、この国を、貴女を、護るためならば、何も恐れるものはありません。
 どうか泣かないで。
 どうか貴女だけで背負わないで。
 この宿命は、貴女ひとりが負うべきようなものではないんです。
 すべては、どうかおれに任せてください。
 必ず、護り抜きます。
 それが使命ですから。
 それでも戦うのであれば、そうですね。
 決して、おれの傍から離れないで。
 いざという時に、護れないのは格好がつきませんから。
 ……では、共に行きましょう。
 姫。





  一面の花園の中で彼女と話す夢を見た。
 違う。夢じゃない。話したんだ。姫。あのひとと。
 目を覚ました。
 それで全て思い出した。
 ああ。ああ、そうだ。おれは。俺は。
 ここはどこだ。
 冷たいベッド、手が冷える。背筋が凍る。全身汗だくで寒気がする。
 ここはどこだ。幾何学的なラインの入った壁面。飾られた花瓶。造花。あのひとは姫しずかが好きだった。これは違う。造りものの花。
 今はいつだ。時計が変だ。針がなくて、数字が浮かんでいる。俺の知っている数字じゃない! なのに読める、A.P.221/03/25 00:26。つまりいつだ。あれからどうなった。何時間経った!
 俺はどうなった? ここはどこだ? 近寄った女に問い詰める。ここはどこだ。今はいつだ。
 女はまるで子供をなだめるみたいだ。馴れ馴れしい。質問に答えろ。
 やりたくはないが、事態は急なんだ。なんでもいい。手近のハサミを利き手で掴んで向ける。あんたは誰だ?
 女は怒る。知ったことか。怒りたいのはこっちなんだ。早く教えてくれ。ここはどこだ。今はいつだ。あれからどうなった。何日経った。あのひとは無事なのか。
 あんたは誰だ。
 女が泣き始めた。知ったことか。泣かれたって困る。いきなり訳のわからないことばかり言いやがる。お前は別に俺の母親じゃない。俺は物心付いたときから母がいないんだ。
 らちが明かない。女を置いて部屋を飛び出す。こうしちゃいられない。
 勝手に開いた扉をくぐる。いやに大きい扉だ。
 景色を見れば大体の場所と時間の見当ぐらい付くだろう。辺りは暗い。星を見れば。
 星を見れば。

 すぐにわかるんだ。
 ……あの国ならば。


 ここは、どこだ?


 規則正しくそびえ立つ鉄の箱の狭い合間の夜空に、全く見たことのない星の並びと、細い割れ目の筋が見える。
 そう思った瞬間には、男の手に体がさらわれていた。





 ◆





  夜が明けた。
 もう何も分からない。
 この夢からはまだ覚めないようだ。
 俺を軽々と抱えあげてリビングまで引き戻した男は、俺の父親らしい。
 ようやく、少し、少しずつ思い出してこれた。
 この夢の世界でのことを。関係性を。
 そうだ。横にいる女は、言われてみれば俺の顔をよく覗き込んで話し掛けてきていた気がする。
 母親だと名乗った。誰の? 覚えていない。知らない。いや、思い出した。でも、母親だったろうか。俺に母親なんていただろうか。わからない。
 俺を見て、今年で四つになるんだと言った。俺の年齢は四つ。そんな馬鹿な話があるか。ハサミを振り上げた左手が、いとも簡単に捕らえられる。抱き抱えて子守唄を必死の掠れ声で口ずさんでいる。突き飛ばしたいが、力強い。力に自信はあるのだが。
 どうやら本当に、この世界の俺は子供らしい。妙な夢を見るものだ。
 男が女に小言を言って、女はメソメソと目元を拭って、俺を抱えたまま寝室へと足早に向かう。そう、この先の部屋は寝室。
 俺はひょっとすると死にかかっているのか? だから、こんな妙な夢を見ているのだろうか。
 そうだとしたら大変だ。俺には使命がある。使命を果たす前に死ぬわけにはいかない。自分の命などどうでもいいが、果たさなければならない宿命を果たす前に死ぬわけにはいかない。
 女が共に寝ようと力ずくで横にさせながら言う。「私があなたのママですよ。リンク、あなたはここにいていいんですよ」。
 そうだ。その通り。俺の名前はリンクだ。だから俺は行かなくちゃならない。俺には宿命があるんだ。
 見知らぬ女がすぐ横で眠ろうというのは落ち着かない。
 俺にはあのひとが生きているだけでいいんだ。一緒になる必要はない、生きているだけで。生きていなければ。
 あのひとを護れなければ、俺は何のために。
 何のために。





 ◆





  ようやく、事態を理解してきた。
 あの女は、本当に、今度の俺の母親らしい。
 彼女には心底哀れな話だ。
 今時珍しい自然分娩で腹を痛めて産んだ息子が、まるで障害持ちみたいに、母親になつかなくて、夜泣きが酷く、言葉を喋るのが遅く、ようやく意味のある言葉を喋ったと思ったら、生まれて初めて喋った言葉が「あんた、だれ」とは。
 可愛い可愛いはずの自分の息子に、まさかこんな言葉を吐かれるとは思うまい。
 今すぐ山林に捨てられても文句は言えない。彼女はカウンセリングに向かった。
 彼女の息子。
 それがこの国とは遥かに違うところから生まれなおした、使命を抱えた子だなんて思うまい。
 俺は争いとは無縁でいられない宿命がある。
 ああ、思い出してきた。あんまりにも思い出しすぎて、頭がはち切れそうだ。
 俺は地上で生まれた。俺は空で生まれた。俺は城で生まれた。俺は森で生まれた。俺は島で生まれた。俺は。俺は。俺は。
 何度も、ハイラルという国で育った。
 俺はなんだ。まだよくわからない。
 俺の名前はリンク。呼び掛けるあのひとの声だけがこだまする。
 あのひとの声だけが、俺の頼り。
 聴こえるんじゃない。覚えているだけだ。
 それでも、あのひとの存在だけが、俺の頼り。
 どうか、今すぐあのひとのもとへ行かせてくれ。



                     

 ◆





  毎日、吐き気がする。
 誰もが俺の言うことを理解しない。俺の頭がおかしいと言いたいのを堪えるみたいに、医者がもったいぶりながらなだめてくる。そもそも、まともに言葉を話せていないと気付くのに何年も掛かった。俺は無力で、無学な子供だった。
 俺は初等部に入ったが、毎日休みのたびに図書室に入って、ここがどこか、あの国へはどっちへ行けばいいのかを探している。
 本のページをめくると、俺の知るどの言語とも違う文字が並んでいる。まだ読めない単語がうんとあるが、それでも随分と読めるようになってきた。
 ここはオラクル。宇宙船団オラクル。
 特定の星に定住せず、何世代にも渡って――この船で航行を始めた頃の記録が残らない程の世代に渡って――銀河を渡り歩いているという。
 宇宙とは、遠い空のことだ。
 見上げていた夜の星々の合間を、この船は泳いでいるという。
 まるでおとぎ話だ。
 惑星に住むのは馬鹿な考えだとみながいう。
 この船に生活と娯楽の全てがあるのに、何故不自由をしてまで未開の地に行く必要がある?
 俺は緑が恋しい。作られていない、大地に息づく力強い緑。それを長い年月をかけて削る美しい川と湖。豊かな自然に育まれてきた動物たち。
 その全てが、あの国にはあった。
 ここにはない。
 いつまでこの授業を受けていればいい?





 ◆





  何気無く、テレビを見ていた。

 ギラギラした光の中で踊る流行りのアイドルの映像には何の興味もなかったが、止めどなく溢れてくる故郷の記憶と、それを必死に伝えようとする俺に向けられた奇っ怪な眼差しを受け止めきれないでいる思考をしばし打ち止めるのには、いくらか役に立つ。
 この世界は俺のいた世界とは違う。額の中で数日前の少女が踊る。光を浴びて、クルクル踊る。

 

 突然、速報が出て、映像が切り替わる。緊急ニュースが緊迫した音声と共に燃えた市街地を映す。
 サイレンが部屋にも響いて、壁面に緊急避難経路が映し出される。襲撃を伝えるテロップが流れている。

 

 母親が慌ててキッチンを飛び出して、それを数秒もしないうちに眺めたあと、パニックになりながらここを飛び出す支度を始める。
 落ち着いて。避難訓練の通りにすればいいんだ。
 そう言うと、そうね、だから急ぎなさい。死んだら嫌でしょ、と言う。
 死んだら嫌。それは本当にそうだ。

 死に行く時間の冷たさ、言い知れぬ恐怖と言ったら、何度思い出しても手が震え、動揺し、膝が笑う。

 あれほどの虚無はこの世に存在しない。もう二度とこんな思いはしたくない。
 ……それでも、だからこそ、俺は他の人々にそれを味わわせたくない。
 俺はそれを根元から絶ちきれるのであれば、生きることに執着などしない。

 

 映像の中で、今まさに市民が襲われ、命を落とした。キャスターが悲鳴を上げて逃げ出す。
 この世界の魔族の軍勢に当たるもの、それがあのダーカーなるものだと言うならば。

 これもまた、俺は打ち倒す使命を持っている。

 母親の制止を振り切って、家を飛び出す。キッチンに置かれたナイフぐらいしか刃物はなかったが、今は充分だ。
 まだ小さい妹を抱えてはそう追ってこれない。来なくていい。数十メートル走った角で、悲鳴が聞こえた。空間を飛び越えて、ここまで侵入していたらしい。おあつらえだ。一散にダーカーに刃を向ける。
 その最中に、ナイフを持つ手が掴まれる。咄嗟の対応より強く、力ずくで。男が立ち塞がる。
「こんなところで何をやってるんだ! 早く逃げなさい!」
 うるさい。そんなことを言っている場合か。俺は戦えるんだ。そこをどけ。
「ここは我々アークスに任せなさい! お母さんはどうしたんだ!」
 アークス。そいつらと戦うものがアークスならば、俺もアークスだ。どけ。そいつを殺すんだ。
 後ろから、追い付いた母親が抱き付いて抱えあげようとする。離せ。ひとたびそいつと向き合わせてみろ。俺は戦えるんだって誰もが分かるんだ。俺は何百何万年とそんなやつらと戦い続けてきたんだ。俺はみなを護れるんだ。男の向こう側で、別のアークスが銃を撃ったのが見える。そうじゃないんだ。殻じゃない。柔らかい腹の下の核を狙えば良いと何故すぐにわからない? 俺に、頼むから俺に戦わせてくれ。これ以上被害を拡大させたくないのは同じはずだ。俺に戦わせてくれれば。俺に。俺には、戦場が必要なんだ。頼むから。あのひとを護る力があったって確信したいんだ。
 母親に抱えられて、恐ろしい速度で戦場が遠ざかっていく。
 逃げてどうなるんだ。避難所でじっと誰かが襲撃を収めてくれるのを待つのか。
 収めるのは俺だ。護るのは俺だ。
 戦えるのは、この国で俺だけなんだ。





 ◆





  あの襲撃から数週間経った。
 同級生の一部はもうのほほん顔で、俺を無鉄砲な馬鹿だと謗る。
 どこで聞いたか知らないが、止められなければ俺は確実に仕留められたんだ。
 ダーカーを倒せるのはアークスだけなんだぞ、お前はアークスじゃないだろ、と囃し立てる。
 倒せないと信じるうちは倒せまい。
 やい、勇者様、勇者様。そう子供が囃し立てる。
 構いやしない。言っていればいいんだ。どうせ本当のことなんだ。
 別の気の弱そうだと思っていた子供が、後になってこっそりと近付いてきて、俺の手を握った。目に涙を溜めていた。
 兄が目の前で殺されるのを、隠れて震えながら見ていたと言った。
 あと少し勇気があれば、戦って助けられたかもしれなかったのにと言った。
 俺はその手を包んで、目を伏せた。
 それで良かったんだ。あれは心を持たない、危険な相手だ。万が一子供を二人も失ったら、両親はきっと悲しんだろう。
 俺は物言いたそうな彼の手をそっと振りほどいて、教室に戻った。
 やい、勇者様、勇者様。
 俺は結局、何もできなかったのだ。





 ◆





  自分の進路を決める年になった。
 俺は、アークスがどうとかを言わなくなった。
 その単語を出せば、母親が激昂するのを知った。
 初等部からの同級生は、あの時の事と、社会科見学の際にアークスの訓練用の的を撃ち抜くテストで、指名された俺がアークス職員を驚かせる振る舞いをして経験者かと問われた時の事を面白がって、アークスになれと言ってくる。
 心からそうしたいと思った。これ以上の職はないと断言できる。適性テストの結果だって、まるで問題はなかった。
 しかし、それは母親の心を踏みにじる。
 あの日飛び出していったように、俺が命を投げ出すような無茶をしないだなんて、彼女には信じられないんだろう。
 ここ数年、情勢は落ち着いているから、大丈夫、調査をするだけの組織だから、と、そう諭しても、そうやって俺が現地の戦況に詳しくあるというだけで、耐え難いようだった。
 俺は母親を泣かせたくてアークスになりたいわけじゃない。
 俺の人生で数少ない、大切な、生きてすぐ傍にいて、孝行ができる母親。
 父親には、何か別の進路を選んでやれないものか、と暗い声色で問われた。
 農業がいいな。と、ぼんやりとした気持ちで返した。

 俺はそれから、家族にも、カウンセラーにもほとんど物を話さなくなった。
 何か言ったところで、妄想症患者の妄言でしかなくなる。
 俺が何か考えを話すと、共感の皮を被りながら、丁寧に訂正して、この世界の常識と、日常生活の話に移られる。
 俺は頭がおかしいらしい。全うな思考の持ち主として扱われている気がしなかった。
 当たり障りのない、学校や勉強の話、運動の話だけを選んでするようになった。
 そうすると母親が嬉しそうにしていて、俺は騙しているような心地がして、それから、彼女は俺のことを愛していると言いながらも、本当は俺の事などどうでも良いんだろうという孤独が襲い掛かってきて、嫌気が差してきた。
 その頃からだったような気がする。俺は感情を抑えられなくなって、時折、酷い癇癪を起こすようになった。
 後で思い返せば余りにも些細なことにも、激昂して怒鳴り散らしたり、酷く動揺したり、閉じこもって泣きわめくことが頻繁に起こるようになった。

 こんなに簡単なことで、俺の心が壊れていくとは思わなかった。人の心は余りにも脆いものだと知ってしまった。
 笑える話だ。きちがい、きちがいと言われるうちに、ついに俺は本当にきちがいになったらしい。もう自分の数分後の感情さえ分からない。
 物を投げて、悲鳴も上げずじっと堪えている母親が、俺が叩き落として割れたガラスの音に怯えて体を震わせ、俺が部屋を離れた後にすすり泣く。
 可哀想に。もし、彼女の大切な息子が、俺でなかったなら。
 あの人だって他人なんだ。
 重々、よく分かっている。だけど、どうやっても感情の制御がままならない。迷惑を掛けちゃあいけない。
 考えるのをやめたくって代わりに体を鍛えていたって、母親はもう怯えるばかりなのだ。俺は自傷をするようになった。

 カウンセラーが、何でも思ったことは紙に書くように、と言った。聞くのが面倒だからって、それはないだろう。父親が代金を稼いでいるのがあんまりだ。
 早く俺が払うようになればいいんだろうが、なったら俺はもうここには来ないだろう。余計に気が狂いそうだ。
 早速ままならない心地がしてしまったので、殴り書きでいい、筆を走らせることにした。俺はここのところ真面目に勉強をして、よく昼寝もして、先生には恐れて触られもせず、質の悪い睡眠をとれています。この頃夜は睡眠導入剤がなければ一睡もできない体になりました。どうもありがとう。薬をもう少し減らしてください。安定剤だか胃腸薬だか知りませんが、毎朝毎夜、何錠も流し込んでいるとまるで自分が重病人になった気がして楽しいです。人生には面白いことがあるもんですね。豊かで進んだ人生だなあ。勉強の話ですが、俺はそんな化学肥料を使わなくても牛や鶏はおいしく育つと思います。歩き回った鶏の身はよく締まっていて本当においしいんですよ。絞めるのには苦労しますが、夜のうちなら大丈夫。だからあの馬鹿げた人工太陽を消しましょう。どこに金を使っているのかさっぱりわからないけど、何をしたって、本物の恒星から大気圏に降り注ぐ光にはずっとずっと敵うものではないんですよ。だから惑星ナベリウスに入植しましょう。俺はここの船の空調が昔から息苦しくて堪らない。きっと同じような若者が他にいて、うっかり自殺を企むなんていう馬鹿げたことがあるかもしれない。そんな不利益があっては大変でしょ。色々と再現するのは結構。そりゃすごいだろうさ。だけどそこに本物の自然があるんだから、いい加減再現ではなく耕せばいい。そんなに品種改良してまで多くの人数を養うのは大変でしょうが、だったらもう全部栄養剤でいい。みんなみんなキャストになってしまえ。ばーか。ばーか。アホらしい。みんなこんな箱の中に詰められて生きてきて、頭がおかしくなってんだ。自分の食事は自分で耕せばいいんだよ。なんでそんな簡単なこともわからないんだ。発展の先がこれだっていうんなら俺は一生原始人でいいね。子供には牛の飼い方を教えてやる。牛が疫病で死んだときのためには猟の仕方を教えてやる!

 ……確かにこれはすっきりした心地がする。
 しかし紙を相手に愚痴を言うとは。悲しくてやりきれない。情けなくなってくる。
 明日にはやめていそうな習慣だと思ったが、他にマシな方法もない。
 酒が飲みたいな。不良だって言われるだろうか。どうせ優等生じゃあないよな。
 ああ、そうだ。俺の妹が、もうすぐで十になるんだ。
 俺に似て金髪の可愛い妹。
 懐かしいな。俺にも昔、妹がいたことがあったんだ。
 アリルって言う、おばあちゃんっ子で、無邪気で俺のことが大好きな、素朴で可愛い妹。
 また優しくできるのは本当に嬉しい。旅に出てからめっきり会わなくなってしまったんだよな。久し振りに会って話ができるのは本当に嬉しい。いくらでも可愛がってやる。お前のために兄ちゃんはたくさん頑張ったよな。覚えてるか? 俺はあの時、お前を助けようとして崖から落っこちるとこだったんだぞ。あの時は何よりも辛かったなぁ。なぁ、覚えてるか。覚えてるよな。俺の誕生日を祝ってくれた日のことを。アリルは俺のことが大好きだったもんな。
 アリル? なんでそんな顔するんだ。もう怖いことはなにもないんだぞ。俺が大事に護ってやるからな。アリル。何が悲しいんだ?

 アリル、アリル。
 この子の名前もわからないの、と、母親に腕を掴んで引き摺られた。
 お母さん。生きてたんだ。俺、もうおばあちゃんしかいないとばかり。



 

 ◆





  薬がよく効いている。
 心は今、とても平坦だ。
 本当はそうじゃないのを、薬の力で、上からも下からも押さえ付けて、無理やり平坦にしている。
 薬が切れてきたら、また、胸が苦しくなって、重病人みたいに喘いで、頭をかきむしって、動物みたいに唸ることになるんだろう。
 想像したくもない。思い出したくもない。
 それだけであの苦しさが甦るようだ。
 まるで地獄。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 だから、こうなってしまったらもう、死んでしまった方がいいというのに。

 子供の頃から、ずっと、あの国を探していた。
 大切な、故郷。
 家族に協力してもらっても、それらしい資料が出てこない。
 おとぎ話の、夢の話なんだと何度言われても、ずっと探してきた。
 船に残る古い記録。今まで船団が渡り歩いてきた、無数の惑星の記録。
 母に内緒で、父も一生懸命調べてくれた。
 それには、心から感謝したい。
 それでも、出てこなかった。
 伝承に語り継がれてきた、神々に愛された国。
 俺が護るべきだった、美しく気高い姫の土地。
 姫の名を持つものがいないか、全ての船の戸籍表を、あの手この手で探して調べあげたが、そんな人はいなかった。
 ゼルダ。それがあのひとの名前。俺の名をいつだって呼び続けてくれたひと。
 俺の存在を繋ぎ止めてくれる声。いつだって、俺が救うべきだったひと。
 そのひとはここにいない。俺が置いていってしまった土地もない。その肥沃な大地を狙う者も、もういない。
 俺は、あれからどうなったのだろうか。
 あの国は、どうなってしまったのだろうか。

 俺は、物心がついてから、ずっと、あの国のことばかりを考えてきた。
 何もかもを覚えていた。人が一生のうちに知りえない、土地の長い生涯を、国家の歴史を、覚えていた。
 俺の名前は、リンク。
 初めに女神ハイリアと共に、魔族から民と神の遺産を空に逃がす戦いをした。
 その戦いの最中に、おれは命を落とした。
 千年の後、次に生まれ変わった僕は、空の街に生まれ、地上に蔓延る魔族を打ち払い、その地で女神の生まれ変わりと共に国を興した。
 その後、数万年のうち、何度も災いが起こり、その度に転生した俺が救ってきた。

 空を舞い、時を廻り、黄昏に染まろうとも。
 結ばれし剣は、勇者の魂と共に……。

 その剣も、最早俺の手にはない。
 あれは、あの国の柱なのだ。
 勇者の魂と共に。
 俺は勇者なのだろうか。俺は、本当にリンクだろうか。
 魂は、つねに、共にありき。
 友と遠く、途方もなく遠く離れ、帰り道も分からないほどに長い年月に流されてきてしまった俺の魂は、本当に友とあると言えるのだろうか。
 護るべき国は、姫は、民は、俺自身は。
 もう、とっくに滅んだのではないだろうか。
 それら神々の力を狙い続けてきた邪悪も、最早この世界から消え去っているのではないだろうか。
 だとすれば。
 俺は何故。
 ここにいるのだろうか。
 俺は、何からも、何も護れなかったのに、独り、生きているんだろうか。
 あの土地を生きている時には、前世のことなどまるで覚えていなかったはずなのに、何故滅んだ今になって、俺の全ての記憶を抱えて生まれたのだろうか。
 何のために。
 俺の使命は何だろう。俺の宿命は。
 もう終わったのだろう。なのに何故続いている。この宿命はなんだ?
 ダーカーからこの船団を護ること?
 俺を主と認めてくれる剣も友もないのに、どうして。
 俺の愛した大地もないのに、どうして。
 俺を見守る女神もないのに、どうして。
 この世界は、この世界の法に則って、この世界の住民が、必死の知恵を絞り、力を尽くし、勇気をもって戦い続けている。
 この船団に、これ以上の英雄が必要か?

 俺じゃなくても、いいはずだ。
 もう疲れた。
 しばし、静かに眠らせてくれ。





 ◆





  休学手続きをとった。
 父親が計らってくれた。
 記憶の奔流に、心がついていけない。
 近頃は、薬を飲んで、廃人のようにぼんやりとやり過ごして、夜になれば眠るだけだ。
 それでも四六時中過去ばかりが思い出される。
 最早、妄想と記憶と夢と現実の区別も付かなくなってきた。生きているだけで疲弊する。
 むしろ、記憶と思っていたものは全て俺の空想だったのではないだろうか。
 そうかもしれない。
 もう、俺の存在の支えであった、あのひとの声がどんなものだったかすらよく思い出せない。
 ハイラルとは、俺が作り出した架空の世界で、俺は、勉強のできないただの学生だったかもしれない。
 でも、そうだとしても。それなら。

 俺の歩みたい人生は、こんなことで手間取っているようなものではない。
 俺にはもっと、歩むべき人生がある。

 入隊に必要な手続きは、何だ?





 ◆





  まずは父さんに相談した。いい顔はしてくれなかったが、どこかこうなることが分かっていたようだった。俺はアークスになる。遅かれ早かれ、いずれそうなると誰もが思っていたんだろう。
 最早これ以上の迷惑も掛けられない。反対されたとして、縁を切られて出ていくことになっても構わない。そう告げると、母さんとはよく計らうようにするつもりだから、少し落ち着くようにと諭された。
 まずはしっかり休学して、せっかく入った高校だ、それを出てからでもいいんじゃないか。
 今は体調も良くないのだから、焦って判断する気持ちは分かるが、だからこそ重要な決断を、調子の悪いときにするのは良くないのではないか。
 良い父親を持ったと思う。
 その通りだ。
 だけど、これはもう、既に遅いのだ。
 俺は中等部の年齢の時点で養成に入っていてもうまくやったであろうし、中等部を出る年齢で、もう訓練学校を選んでいて良かったはずだ。むしろ、やはり、そうすべきだった。
 今この高校に籍を置いているのは、他ならぬ母さんのためだ。俺の人生のためではない。
 それで、俺がこうやって休学してろくでなしになっているのを傍で見ていて、それは結局母さんのためになっているんだろうか?
 俺が腹をくくって農業に従事して、穏やかで優しい良い息子のふりをしようったって、母さんだって、薄々気付いているだろうに。俺の本性が、天職が、そうではないことぐらい。
 確かに、訓練学校ではなく、今の学校に行くと決めたのは俺だ。
 だから、その不義理に対する相応の罰として、縁を切られることになっても受け入れる。
 俺は訓練を終えてアークスになった暁には、定期的に家にいくらかの収入を入れたいと思っている。

 今まで迷惑ばかりを掛けてきた、駄目な息子なのだから、このぐらい当然だろう。
 ここまで言って、父親は呟いた。
 お前は勘違いしている、と。
 父さんも、勿論母さんも、まだ若いのだし、本心から、お前が身を立てるまでの面倒を見ることを嫌だと思っている訳ではないと。
 縁を切りたいのは、きっとお前の方なのだろう。
 お前は昔からそうだった。
 私達を、両親だと思っていないんだろう?
 俺は、何も言えなかった。
 そういうわけではないと言いたかった。でも、俺は両親との付き合い方を知らない。
 本当に肉親を持つ子供の振る舞いとは、俺がずっととってきた態度ではなかったのかもしれなかった。
 余りに甘えてきたと思ったが、きっと、彼と彼女の思い描く情景ではなかったろう。
 胸が苦しくなって、はち切れそうだ。泣いてしまいたい心地がしたが、ここで崩れてしまっては余りに無様。必死に耐えた。
 父親は、俯いてから、お前はそういう子だったよ、と呟いて、承諾した。
 俺はアークス訓練学校に入隊する。
 今年で、十八になる。

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