top of page

―Collaboration

Episode5
紫電 

  クロラが、ベッドに座る。
 女のベッドではなく、研究室の冷たく無機質なベッドに座る。
 週のこの曜日この時間では、彼は哀れな研究対象になる。
 紙コップの水を渡される。

 飲み干して下さい。と、マジックミラーの窓とマイク越しの研究員のアナウンス。

 ミラー加工なんてしてあっても、クロラは“ちょっとした注意”を向けるだけで、その水に液体を混ぜているところぐらい目にすることができている。
 どうせ、目の前で捨ててやっても、電流を流されることぐらい分かっているのだ。
 ……飲めと言われるのならば、飲むしかない。
 しかし、今日ばかりは久し振りに抵抗したい気がした。

「……本当にいいの? 俺は君たちとは違うものなんだよ。君たちの予測とは、全然違った、取り返しのつかないことが起こるかも」

 スピーカーは何も伝えてこない。ミラー越しの、マイクを握った研究員の畏まった顔が見える。馬鹿だな、何も見えていないと信じている。言っていないから当然だ。人間の知覚はどうやら遮蔽物に弱いご様子。

「あるいは君たちの予想していない裏切り者があって、そいつのせいで君たち全員がこれから大変な目に遭うかもしれない」

 遮蔽のつもりの物体から目を伏せ、本人でも意味の分かっていない語りかけを行う。
 研究員の一部がピクリと身動くが、クロラはそいつのことを見なかった。
 マイクを握った男が、放送スイッチをオンにする。

「早く飲みなさい」

 ハッタリだ。そう思ったんだろう。
 そうなのかもしれない。と、クロラは薄ぼんやりと思う。
 何故なら、もうどうでも良いことだと思ったからだ。

 クロラはコップの液体を飲み干す。
 なんてことのない、ただの水だ。
 ごちそうさま、と無気力に呟くのに、研究員たちが詰まった息を抜いたような無言の振る舞いをして、他愛のない問診が続く。
 しばらく答えているうちに、クロラの視線が泳ぎ始める。
 落ち着きのなくなりつつある様子に、研究員の男がマイクを持つ。

「どうしましたか」

 クロラは動悸のする心臓を押さえ、微かに呟く。
 そう。これでいい。何も知らない。クロラはこれで、何も知らずに飲んだのだ。

「なに、混ぜたの」

 研究員が、成分を指差し、この部署の新人に反応のメモを取るよう指示をする。
 お気の毒に。この化け物はしばらく従順で紳士的に過ごしていたものだから、人事が油断したのだろう。彼女は期待の新卒だった。
 男は言う。

「それは言えませんが、毒性のあるものではありませんよ。どこか痛みますか」
「……そう。……」

 震えるまつげに、傾いで落ちた長髪が掛かる。その下にある口が、歪んで吊り上がりだした。
 フラりと立ち上がり、近付いてくるさまに、顔を上げた新人が後ずさる。
 ペタリ。と、窓に両手をついた歪んだ笑い顔のクロラが、瞳孔を針のようにして彼女を正確に見詰めていた。
 マイクが冷静に話しかける。

「どうしましたか。気分が悪いですか」

 新人のみならず、指導していた女も注視している。
 籠った笑いをこぼしながら俯いていくクロラの顔とは対照に、濁った泥のようにどす黒いものが床から壁を這って蠢きながら延びていく。
 呼び掛ける男の声が緊迫感を増したのをきっかけに、後方で作業をしていた研究員も目を奪われる。
 翼が不気味な色をして展開され、醜く拡がる。
 ……退避。誰かが呟く。
 クロラが目を見開いた。

「退避! 退避しろーー!」

 けたたましい破砕音と共に触手が伸び、男数名を貫く。
 悲鳴と共に逃げ出した者を伸びた翼膜が潰し、化け物は壁を通り抜けて、立ち塞がる指導役の女の首を掴んで、締め殺す。
 腰が抜けて動けないでいる新人の女を見下ろし、クロラは笑んだままこう言う。

「君はかわいいね! 殺してあげるよ」

 引き吊った顔を蹴り倒し、頭を潰す。触手が彼女の腕を引き千切り、逃げようとした女の前に投げつける。クロラはご満悦顔で近くのメスを手に取り、ゆっくりと歩み寄る。
 ゆらりと蠢く異形を自らの手足の一部とする化け物を見て、より一層ドアを叩いている。その扉はもう開かない。配電盤を壊したからだ。
 悲鳴を上げる女の太股にメスを投げつける。次は掌。次は首元。
 ケラケラ笑いながら一本投げるごとに呻き声を上げる。さながら数えているかのように。
 五本刺さった女の目玉に六本目を突き刺し、キスをして舌を噛み千切る。
 意識を失った女の口に最後のメスを突き立て、立ち上がってそのまま壁をすり抜ける。
 廊下に出ると先程ギリギリ逃げ出した男の、警告を叫ぶ背中が見える。その眼前にズルズルと障壁を生み出し、そこから刺し殺す。
 剣山の針を撤回すると男の死体が落ち、さらなる悲鳴が研究所にこだまする。
 誰かが非常ベルを鳴らし赤い光とサイレンが異常を訴える。
 赤色に染まった廊下からエレベーターに逃げ出そうとする男の足が何かに絡み付かれて崩れ落ちる。そのままずるずると化け物の方へ引き摺られていくものだから男は絶叫し、蹴り上げられて浮いた体が化け物の腕によって壁に叩きつけられ絶命する。
 それを見ていた女たちが泣きながらシェルターを落とし、エレベーターのボタンを連打するが、なかなか来ない。とにかく逃げ出そうと一人が別の非常用通路に走るが、カードが通らない。
 アナウンスが響く。

『警告します。区画C-256で、研究対象の脱走を確認。周辺職員は決して外部への逃走を許さず、至急捕獲してください。警告します。区画C-256で……』

 女たちの背後に、クロラが現れる。
 このようなシェルターを閉めてロックを掛けたって、この化け物には無意味だった。
 閉じ込められた哀れな女の研究員どもを屠ったあと、クロラはエレベーターの閉まっている扉をくぐり抜けた。



 翼を拡げ、長い長い階の先にいた人間を数人殴り殺してからというもの、このがらんとした吹き抜けの棟には誰もいない。
 ここはなんなのか、調べるほどの興味もない。
 周辺に殺戮対象がいないとあって、彼は徐々に、微かながら、落ち着きつつあった。
 勿論、市街地まで行けば、殺戮の快楽は無限に味わえるだろう。
 地下施設に戻れば、そこでも殺し尽くせるだろう。
 しかしクロラは、そうしたい気持ちにはなれなかった。
 本能が足りぬと張り裂けんばかりに訴えかける中で、自らに起こった異常に気が向いていた。
 本来、殺すことで快楽を得るような性格ではないのだ。
 人でないものに性格とは笑い話だが、人から快楽を得るのに殺してしまっては勿体ない、と思う気持ちが、今は殺害こそが最高の快楽だと感じている。
 クロラの研究に携わっている人間はどれも上手く落としていければさぞ愉しかろうと思っていたのに、皆、殺してしまった。
 その分快楽を得たのだから、惜しいとは思わないが、また新しいチームと関係性を築いていかなければならないかもしれない、まして、そもそもこの一件で一切交流を禁じられ、ボットと対話させられる破目になるかもしれないのだ。

 それに、そういう打算以上に、クロラの感情を占めるのは、親密な人間に叱られるかもしれない、という、幼児のような畏れだった。
 これは、今この肉体の持ち主、作製から二年余りのクローン体の意識に由来する。
 クロラはフラフラと、酩酊感に苛まれながら窓に向かって歩く。

「……リンク。具合が悪いよ。気分が良くない。目眩がするんだ……」

 通信ホロを起動して、うわごとのように語りかける。
 相手は呼び掛け方で態度を柔らかくしていて、ねぎらう。
 きっと、これが、勇者、とわざとらしい肩書き呼びであれば、ざまあないな、と返してきただろう。
 クロラは息を抜きながら、疲労感を口にし、会話を長引かせようとする。
 しかし、リンクは何が起こったか気付かないようで、適当に、済んだのなら帰ってきて休んでもいい、と笑いながら言う。

「……迎えに、きてくれないかなあ。」
『なに言ってんだ。子供じゃないんだから帰ってこれるだろ? 俺、任務中だから、まぁ、頑張れよ』
「……えー。」

 どう会話を引き延ばそうか。まだまだ平静に帰れそうにない。
 薄ぼんやりとした意識で、研究員たちの血を床に滴らせたまま、考えているうちに、甲高い笑い声が反響する。
 眼前に紫電が走り、クロラは黙ってホロを閉じた。

『キャハハハハハッ! 全然ビビらないねぇ! やっぱりお前は面白そうな奴だなぁ!』

 声の主が飛び降りてくる。
 見ればそれは、白から紫のグラデーションが掛かった髪の、幼い少年。
 それが普通の少年でないことは、立ち振舞い、その狂気を孕んだ眼差し、翻る竜の翼から、直ちに分かる。
 コレもまた、人外であった。
 少年が薄気味悪く笑う。

「……アハハッ。いきなりごめんね? あの時からずーっと気になってたから、今日は探しに来たんだよぉ。……ねぇ。僕と遊ぼうよ。」

 クロラは目を逸らす。

「……きみ、“なんだっけ”」

 この非礼に、少年は上体を傾げる。

「ああ、覚えてくれてなかったの? 酷いなぁ……。僕、オメガで会った、ニーウだよぉ。……でもいいのさ、これからやりたいことは変わらないから……。ね、早く遊ぼう?」

 ここで、ようやくクロラが少年を真面目に見る。

「……さあ。俺にはよくわかんないなあ。人違いじゃないの」
「……あははッ。……ふーん。わっかんないやつだなぁ……ッ!」

 ニーウが口元を鋭く笑わせた。
 紫電をバチバチと唸らせ、ジェットブーツ“グリシナ”に載せて蹴り出す。
 直ちに閃光がクロラの頬を掠め切り、血が滲み出る。雷テクニック“ギ・ゾンデ”。

「それで隠せてるつもりなの? ……間違いなくオマエだよ。ほら、早く見せてよ……」
「君こそ、わからないやつだねえ。……」

 クロラが肩を震わせて、頬を拭いながら、呟く。
 ニーウは、クロラを注視し、黙って続きを促す。

「きみはホントウに運が悪い“モノ”だってことがさあ?!」

 翼が展開される。抜き撃った双機銃の弾丸が唸りを上げて襲い掛かる。
 それをブーツの側面で弾く、ニーウの狂喜の顔といったら!

「アハッ。最高だよ!」

 そこからは速かった。ニーウの肉体より早い残虐の意志が、電撃となってクロラに襲い来る。それを感じていてもなおクロラは避けもせず、殺意を優先、ニーウに向けた双機銃のトリガーを引き続ける。
 ニーウが跳んで回避したところに、それを予測したクロラの追撃が待ち構える。
 そこにあえてニーウはフォトンを纏って突っ込み、弾丸を蹴り落として相殺としながら後退する。
 その予測軌道線上にクロラは弾幕を張る。ニーウ、回避不可と見て“グリシナ”をさらに展開。水晶体のデュアルブレードを握りその刃でもって弾を受け流す。
 近寄らせたくないクロラは標的の“向かう所、向かう所”に弾丸を“置く”。近寄りたいニーウは両手剣と落雷でその殺意を弾きながら、ブーツのオーバードライブによる急速接近を狙う。
 クロラを間合いに収め、両刃をクロスさせて斬り掛かったつもりが、思わぬ金属音に弾かれる。口を大きく吊り上げているクロラが手にしていたのは、大剣。
 大振りの斬り払いを感知しニーウは跳んで避け、そのがら空きの頭を渾身の力で蹴り飛ばす。
 派手な音を立てて倒れるクロラに追撃するべく襲い掛かったニーウの凶刃を、クロラの手がするりと潜り抜けてニーウの小さい頭を捕まえる。
 次の瞬間には、ニーウの頭は轟音を立てて床に叩き付けられていた。見下ろすクロラのその瞳に意識はない。
 ニーウは血痰を吐き掛け、爆雷“ゾンデ・零式”による威嚇と共に、体勢を器用にクルリと変え大剣を蹴って仕切り直しとする。
 そのままニーウを見もせずに、片手の双機銃で正確にニーウをタタン、と指切り、狙い撃つ。逃す気がない。
 確実に心臓を捉えている恐るべき弾道に対し、それだけは当てさせるわけにはいかぬと身を捩って脇をかすらせる。摩擦で衣服と肌が焦げる。
 クロラはユラリ、立ち上がって来る。頭から、落雷を受けて火傷した腕から、赤黒い血が溢れ出て床に滴る。
先程屠った他人の返り血が混ざり落ちる。

「……いたいなあ。……いたいよお。これじゃあ、しんでしまうよお。……」

 言葉と、歪み笑んだ表情と、機銃を向ける行動の、その全てが裏腹だ。
 その瞳で、生者とでも言い張るつもりだろうか。

「……ッは、そうなのぉ? 死んじゃうのはこまるなぁ。でも、僕は死なないから……。頑張って、ね?」

 頭痛を堪えて睨むニーウ。雷を唸らせて、場に力を蓄積させる。
 この悪魔、痛みも見えず疲れも知らずかと思ったが、ダメージは確実に蓄積していると見える。
 しかし、それはニーウも同じこと。
 やはり面白い、と舌なめずって、滴る血の味を堪能する。

「……そうらッ、この間合いも僕のものだッ!」

 爆雷。
 雷の嵐がクロラの周囲直上と床を接続せんばかりに光り散って猛け狂う。
 その寸前に、ニーウは見た。
 奴の翼が周囲に覆い被さったのを。
 肉体ではなく翼で猛雷を受けるのを見るに、無効になるのかと思えばそうでもない。
 盗み見た表情は、苦痛に歪んでいた。

「……アハッ。アハはははッ!! いたいの? ねぇッ! じゃあ、じゃあ、もっと強いのを落としてあげるよッ! ねぇ、そしたらもっと遊んでぇ!」

 雷を操るその少年の姿は、
 ……いや、少年、だろうか。
 その大きく裂けた口からは、牙が覗く。
 地を竜の尾が叩く。
 其の名は何であろう。

 ひときわ、大きい雷鳴が轟く。

 ニーウがにやりと笑んだ瞳に、倒れる男の姿が見える。
 先程まで対等に戦っていた相手が、クロラが、倒れる。
 床にぶつかって頼りない、どさり、が耳に届く。
 ニーウは、笑うのを、少し、やめた。

「あれぇ?」

 紫雷を浴びせる。
 ピクリとも反撃してきやしない。

「なぁに? もう終わりなの? ねぇねぇ。もっと遊ぼうよぉ。まだ、全ッ然足りないよ? ねぇねぇー!」

 適正距離を保ちつつ、近付く。
 ニーウ以外誰もいなくなったかもしれないこの棟全体に、一人分の靴音が響き渡る。

「……けけッ。ほんとうにおしまいなの? ふぅん、思ったよりつまんないなァ……」

 頭を蹴り転がし、生体反応を確認する。
 呼吸無し。瞳孔収縮無し。

「……あっそ。じゃあもういいや。次いこっかなぁ~ッ!」

 斬った感触を最後にひとつ味わうべく、ニーウがその刃を振り上げる。
 その瞬間だった。

 この時間、この空間、この次元は、全ての認識を凌駕する。

 かつて神であった竜ですら、直ちに頬を凍らせる。
 背後に立つのは、そっと愛を込めて頬を撫でてくるのは、最早“邪神”だ。
 先の男であって、先の男ではない。
 いや、あるいは、何と戦っていたんだ?

「ああ。殺すよ。てんで愛していなくたって、殺すよ。だって君も、死んだら悲しむ“ニンゲン”がいるんでしょう」

 振り返り様に斬りつける。
 それは空をきるばかりで、そこばかりが霧散する。
 この男には実態がない。まるで空虚な、ヒトの真似をした黒い霧だ。
 ニーウは、あざ笑う。悦びにうち震える。
 “邪神であるならば、対等だ”。

言い訳

bottom of page